
こんにちは!NO MUSIC,NO LIFE おもち原もち子です!
夜、ふと再生ボタンを押したくなる曲ってありますよね。
リーガルリリーの「僕のリリー」は、わたしにとってまさにそういう一曲です。
気だるいのに切実で、投げやりなのにどこまでも一途。
- こんなに人のことを想えるっていいな
- 自分にとってリリーって誰なんだろう
この記事では、歌詞の情景をひとつずつ辿りながら、
「リリー」という存在の正体について、わたしなりの解釈をお話ししていきたいと思います。
MVもあるので、あわせて観てみてくださいね♪
「僕のリリー」の基本情報
リリース時期と収録作品
「僕のリリー」は、女性スリーピースバンド・リーガルリリーが2018年6月6日にリリースしたミニアルバム『the Telephone』の5曲目に収録されている楽曲です。同作はオリコンチャートにもランクインし、当時のバンドの勢いを象徴する一枚となりました。
『the Telephone』は、2016年の『the Post』から始まった三部作の完結編にあたる作品でもあります。ボーカル・ギターのたかはしほのかさんを中心に紡がれてきた「郵便」「電話」といったモチーフの系譜を思うと、「僕のリリー」もまた、届かない誰かへ宛てた、そっとしまわれた手紙のような曲として読むことができるように感じます。
この位置づけを心のどこかに置いておくと、このあとの考察がより身近に感じられるはずです。
思い浮かぶ情景
だらしなさの中に隠された切なさ
「僕のリリー」を最初に聴いたとき、多くの人が感じるのは「気だるさ」ではないでしょうか。
- 吸い殻を捨てられずにいる様子
- 待ち合わせを人目から隠す仕草
- お酒の匂いを引きずったままベッドに横たわる姿
どれも生活の匂いがして、決して美しく整えられた姿ではありません。
けれど、この「だらしなさ」こそが、この曲の切なさを支えているように思うのです。
- 相手のいない朝に起きられない
- 相手の気配を探して煙草に手を伸ばしてしまう
そうした小さなしぐさのひとつひとつが、失われたものへの未練を、言葉よりも雄弁に語っています。
歌詞は「好きだ」「会いたい」とまっすぐ繰り返すだけの単純な構造ではなく、
日々のふるまいや小道具を通して、感情をそっと滲ませていくところに、この曲ならではの繊細さがあります。

生活の中で”ふと思い出してしまう”っていうのが、すごくリアルだよね
「ぼく」と「わたし」の一人称の揺らぎ
酒気帯びで、わたしはベッドの上。
この曲を丁寧に聴いていると、語り手の一人称が「ぼく」と「わたし」のあいだで揺れ動いていることに気づきます。基本的に一人称は「ぼく」で進んでいますが、ある一節だけ「わたしはベッドの上」のように「わたし」という一人称の揺れが見られます。
この揺らぎは、ただの表現上の遊びではなく、語り手自身の心の輪郭がぼやけてしまうほどの喪失感を、そっと映し出しているように感じられます。
一人称が定まらないということは、語り手が「誰として」相手を想っていたのかさえ、自分でも分からなくなっているということなのかもしれません。
恋人としてなのか、友人としてなのか、あるいはもっと近しい、家族のような存在としてなのか。
その境界がやわらかく溶けていく感覚が、サビで繰り返される呼びかけに、いっそうの切実さを与えているように思います。

「人として」「友達として」「恋人として」「家族として」
このカテゴリが変わると、相手への考え方も変わってくるよね
「タイムスリップ」という言葉に宿るもの
あぁ、遠い思い出に気を取られた
未来などタイムスリップしたようなものです。
歌詞の中盤には、まるで時間の感覚がずれてしまったかのような一節が登場します。
この表現は、この曲全体を読み解くうえで、とても大切な鍵になっていると思います。
語り手は「今」ではなく、過去の記憶に強く引き戻されている。
つまり、この曲で歌われている「君」との関係は、いま進行しているものではなく、すでに終わってしまった、あるいは形を変えてしまった関係である可能性が高いのです。
リリーとは誰か|考えられる3つの解釈
ここからが、この記事でいちばんお話ししたかった部分です。
「リリー」とは、一体誰なのでしょうか。
歌詞を何度も読み返していくと、大きく三つの解釈が浮かび上がってきます。
一つ目は、別れてしまった恋人としてのリリー。
- 待ち合わせを人目から隠していたこと
- お酒の力を借りなければ本音を出せずにいたこと
などから、周囲に公言できなかった、あるいはうまくいかなかった恋愛関係だったことがうかがえます。
すでに終わってしまった恋を、それでも手放せずにいる姿として読むのが、いちばん素直な解釈かもしれません。
二つ目は、もうこの世にいない誰かとしてのリリー。
「君の匂いがする」ものにすがりつく描写や、時間の感覚がゆっくりと歪んでいくような表現は、単なる失恋というより、どこか「死別」に近い痛みを帯びているように感じます。
バンド名にも「リリー」という言葉が含まれていることを思うと、
この曲そのものが、バンドの持つ世界観 ”儚さと激しさが同居する存在” を体現する
ひとつの人格として、「リリー」を描いている可能性もあるのではないでしょうか。
三つ目は、“かつての自分”あるいは”手放してしまった理想の自分”。
リリーが実在の他者ではなく、語り手自身の”かつての自分”、あるいは”手放してしまった理想の自分”を映し出す存在という解釈です。
「リリーに会いたい」と繰り返す語り手は、もしかすると失われた無邪気さや、まだ何も諦めていなかった頃の、まっすぐだった自分自身を探しているのかもしれません。
「ぼくのリリー」という言葉には、他者への恋しさだけでなく、「かつて自分の中にあったもの」への静かな喪失感が、そっと重ねられているようにも聴こえます。
どの解釈が正解かは、きっと作り手ご本人にしか分からないことです。
けれど、この三つの読み方に共通しているのは、「リリー」が”すでに手の届かない場所にいる存在”だということ。
恋人であっても、亡くなった方であっても、過去の自分であっても、語り手はもう二度と、同じ形でリリーに会うことはできません。
それでも呼び続けずにはいられない——!
その矛盾こそが、この曲のタイトルであり、いちばんの核心なのだと、わたしは思います。
サビに込められた祈り
サビで「リリー」という言葉がひたすら繰り返される構成も、この解釈をそっと後押ししてくれます。
名前を呼ぶという行為は、本来、相手がすぐそばにいることを前提とした行為ですよね。
でも、この曲における反復はむしろその真逆で、呼んでも呼んでも応えが返ってこないことを示しているように聴こえます。
届かないと分かっていながら、それでも呼び続けてしまう。
その行為そのものが、どこか祈りにも似た切実さを表していると思います。
まとめ|「僕のリリー」がやさしく胸に刺さる理由
「僕のリリー」は、綺麗事のない日々の断片を積み重ねながら、その奥に強い喪失感と、それでも消えない渇望をそっと隠し持った楽曲です。
「リリー」が誰であるかを、無理にひとつに決める必要はないのかもしれません。
恋人であっても、亡くなった大切な誰かであっても、過去の自分自身であっても、この曲が描いているのは「もう手が届かないと分かっていても、名前を呼ばずにはいられない気持ち」そのものだからです。
この曲を聴いて胸がきゅっと締め付けられた方は、きっと自分の中にも、「呼びたいのに呼べない誰か」を、そっと抱えているのだと思います。
リーガルリリーの楽曲には、そうした言葉にしづらい感情を、やさしくすくい上げてくれる力があります。
「僕のリリー」もまた、聴くたびに自分自身の「リリー」を思い出させてくれる、そんな一曲なのではないでしょうか。

あなたはリリーを「誰と」重ねますか?

